My Backbone 本と映画と音楽と ~「小清水 志織」こと Yくんのリクエストに応えて~
『自分のなかに歴史をよむ』(阿部謹也 著。1988<昭和63>年 初版。筑摩書房 刊)
※このホームページの「脚下照顧」のコーナーから
2006年に亡くなった阿部謹也(「社会史」学者。中世ドイツ史が中心)の『自分の中に歴史を読む』を再読(初読は初任校で
20代の頃)して、「解った」(アベキンの「わかる」は、これ。数学の「解(かい)」にも通じる?)こと。
1.E.H.カーと双璧の歴史家。「歴史とは、現在と過去との対話(現在を生きている私たちは、自分たちの過去を、
個人として、同時に一人ひとりがメンバーであるチームとして、主体的に向き合い、解ることによって、未来への道を
構想し、未来を拓くことができる)」(E.H.カーの『歴史とは何か』より。括弧の中は、私の解釈)と「私にとって歴史は
自分の内面に対応する何かなのであって、自分の内奥(ないおう)と呼応しない歴史を私は理解することはできない」
(アベキンの前掲書より)。両者の共通点は、「対話」。カーは現在と過去との対話、アベキンは歴史と自分の内面との対話。
2.司馬遼太郎と双璧の物書き。いわゆる「作家センセイ」ではないシバリョウと、「学者センセイ」ではないアベキン。
2018.12.22
J.H.エリオットの「…過去を当時の人の眼で見て、経験すること」という考え方に、これまでボンヤリ思ってきたことを明確に
するための「補助線」をもらいました。『歴史ができるまで――トランスナショナル・ヒストリーの方法』をネットで注文しました。
これで、三位一体。E.H.カーの「歴史は、現在(未来も)と過去との対話」と、阿部謹也の「歴史は自分(の内面)と過去との対話」
にプラスした「3つの補助線」。J.H.とE.H.の「H」が、History のHに見えたりして…。以上、K先生へのメール文章の一部から。
J.H.エリオットの前掲書を読み終えて。 2019.1.4
「春心」は旅心に通じる。今、どこかに旅するのもいいし、過去の思い出を旅するのもいい。過去は自分史という歴史。歴史を解する
コツ(「補助線」)は、次の三つの考え方。「歴史は、現在(未来も)と過去との対話」(E.H.カー)と「歴史は自分(の内面)と過去との
対話」(阿部謹也)。そして、「過去を当時の人の眼で見て、経験すること」(J.H.エリオット)。 2021.3.9
数年間に読んだ『ホモ・デウス』(ユヴェル・ノア・ハラリ 著。柴田裕之 訳。2016<平成28>年 河出書房 初版)上・下2巻の
読書備忘録。一時期(2年前)、ずっと「ハラリ本」を読み進めていた。『ホモ・サピエンス全史』から『21 Lessons 』も含めて。この日、
折り曲げたページを中心に再読しながら、傍線と書き込みをした。
「歴史の研究は、私たちが通常なら考えない可能性に気づくように仕向けることを何にもまして目指している。
歴史学者が過去を研究するのは、過去を繰り返すためではなく、過去から解放されるためなのだ。」
「歴史を学ぶ目的は、私たちを押さえつける過去の手から逃れることにある。歴史を学べば、私たちはあちらへ、
こちらへと顔を向け、祖先には想像できなかった可能性や祖先が私たちに想像してほしくなかった可能性に気づき
始めることができる。(中略)歴史を学んでも、何を選ぶべきかはわからないだろうが、少なくとも、選択肢は増える。」
「歴史を学ぶ最高の理由がここにある。すなわち、未来を予測するのではなく、過去から自らを解放し、他のさまざまな
運命を想像するためだ。もちろん、それは全面的な自由ではない。私たちは過去に縛られることは避けがたいが、
少しでも自由があるほうが、まったく自由がないよりも優る。」
2021.3.9付のこの「脚下照顧」で、私は以下の様に記している。歴史を解するコツ(「補助線」)は、次の三つの考え方。「歴史とは、
現在(未来も)と過去との対話」(E.H.カー)と「歴史とは、自分(の内面)と過去との対話」(阿部謹也)。そして、「歴史とは、過去を
当時の人の眼で見て、経験すること」(J.H.エリオット)。
四つ目の考え方に出会った! それは、「歴史とは、過去の束縛から解放されて未来の可能性に気づくためのヒント」(Y.N.ハラリ)。
2024.6.25